去年のちょうど今頃、「生成AIについて考えていること」という記事を書いていました。あれから1年が経ちました。
私はソフトウェアエンジニアとして仕事をしていましたが、去年の11月中旬から休職しています。休職してからはコードを書くことも生成AIを使うことも減りました。以前は個人でDevinやCursor、ChatGPT・Claudeの上位プランに課金していましたが、今ではそれもほとんどは解約してしまいました。
現在は療養のために日々を過ごしています。毎朝6時頃に起き、22時には寝ます。朝起きて朝の日課をこなすと、近所の公園に散歩にでかけ、そこで読書をし、また別の公園に向かいます。このループをしばらく繰り返し、昼過ぎになると帰宅し、家事をしたあとは作曲と、その曲のための動画編集をします。ベースの練習もしています。夕方になると、寝る準備を始めます。スマホの電源は切り、Xにログインするのに必要な 2要素認証に必要なセキュリティキーとともに、玄関にあるタイマーでロックされるハコに朝まで封印してしまいます。そうして寝る準備を進めた後、20時頃には紙の本を読み、ピアノの練習をします。そうして、21時になると、ほぼ日手帳にその日の読書や作曲についての日記を書きます。あれこれ日記を書き終わった頃には眠たくなり、22時には寝ています。
散歩の合間の読書や寝る前の読書では技術書は読んでいません。小説や音楽についてなど、ソフトウェアエンジニアとしての「仕事」に全く関係のない本を読んでいます。
今年はこのような生活を日々過ごしています。それによって、ソフトウェアエンジニアという仕事や生成AIという技術から距離を取り、落ち着いてあれこれを考えられる時間ができました。この時間で生成AIについて考えたことを記事として残すことは面白いことではないか、と思いこの記事を書き始めました。
もっとも、一番この記事をおもしろがるのは「生成AIについて考えていること」を改めて読んでおもしろがった私のように、未来の私自身であるとは思うのですが。
我々はどこに向かっているのか?
最新の生成AIツールを仕事で自由に使えることが、ソフトウェアエンジニアとして仕事をする上での必要不可欠な要素になってきているように感じています。それは一定のレベルまでは合理的であるとは思いますが、一人のサラリーマンとしての立場としてこれを考えると、よくわからないな、と思います。生成AIツールは仕事の道具であり、サラリーマンエンジニアはそれを使って仕事の密度を高め、もっと働く。それに見合った報酬が支払われればよいのですが。立ち止まって見ると、「何やってるんだろうな」と思ってしまいます。さらに言えば、その報酬も個人で契約する生成AIツールのために使う。この構図はある側面から見るとフォーディズムに似たようなものに見えます。生成AIを使い労働の密度を高め、報酬を得て、その報酬を生成AIに使う。このサイクルを回し続けた先には何があるのでしょうか?
仕事と趣味の境界
これまでは「仕事」であったものが「趣味」になってきていると、より感じてきています。そして、それを埋め合わせるように「趣味」の領域も広がっている。ソフトウェアエンジニアとして、生成AIの支援を受けずに人間がコードを書くことはもはや趣味の領域になってきているのではないか?生成AIを使わない、という選択が趣味の範疇になっているのではないかと思うのです。コードを書くという行為が陳腐化、生成AIがやればいいこと化した結果、人間の自己効力感を支えるために、Claude Codeをどう使うかとか、dotfilesをどう管理するかとかといった新たな趣味の領域が生まれているように感じます。生成AIが仕事をすることで生まれた、空白を埋めるために生成AIに代替し得ない趣味に傾注するのではないか。
自己満足の増大
生成AIを使うことで、これまでは不可能だったことが可能になりました。そうして可能になったことのうち、ある程度は自分自身のみを満足させるための行為だと思うのです。不特定多数を満足させるための行為ではなく、自分自身のためだけの行為であると。これから先、十人十色の自己満足がモチベーションのベースになっていくのではないかと思います。自分さえ満足できればそれでよい、だから自分の中だけに留めておくことを選ぶアウトプットも増えていくのではないか?そうすると、世の中に発信される情報の多くは、個人に適用できる自己満足のためのハウツーになっていくのではないかと思っています。これは必ずしも否定的な意味ではないです。そもそも、これまでもそうだったのかもしれません。
「見てもらえない」・「選ばれない」経験の増加
生成AIによってソフトウェアも、技術記事も画像も音楽も簡単に生み出せるようにはなりました。それらを生み出す敷居は低くなりました。しかし、それは大多数の人が享受できる恩恵です。この世の中に生み出されるものは増えても、一人ひとりの可処分時間・注意はそこまで増えないでしょうから、世の中に発信したとしても見てもらえないことのほうが多いでしょう。そういった、自分の生み出したものを見てもらえない、という経験をする人は増えていくのではないかと思っています。前述の「自己満足の増大」とはやや矛盾するかもしれませんが。
アテンションエコノミーの加速
「通知バッジ」、「プッシュ通知」の発明によって人間の注意力は奪い合われてきました。生成AI以前は通知の発信をトリガーするものは人間のアクションが多かったのではないかと思っています。Xにおける「リポスト」や「いいね」やLINEおけるメッセージの送信のような。人間が人間に対して通知を送っていました。機械的な通知もある程度はありますが。今ではその人間の限りある注意力の奪い合いに生成AIに加わりました。これまでパーソナライズされ、各個人の注意を惹くための通知のトリガーに別の人間を欠かすことは難しかったです。それが今では、生成AIにインプットを与えると、ランダムな待ち時間を経て、通知が送信されます。このサイクルは自己完結的であり、完全にパーソナライズされています。ほぼ無限に生成AIによって人間の注意力を惹くことができる。これはとても恐ろしく感じています。
長くなってきたので、この記事はこれぐらいにしておきます。